2015年09月23日

画家・横尾忠則の誕生…きっかけは「ピカソ展」

 〈いわゆる「画家宣言」が報じられたのは昭和56年。実は本人が宣言したわけではなく、マスコミ発信の言葉だったようだが、このころ画家・横尾忠則が誕生したのは確かだ。きっかけは前年にニューヨーク近代美術館で見た「ピカソ展」という〉

 ピカソがひたすら自己の感情に忠実に描いているというのは、もう一点一点見ればすぐに分かるんです。その無垢(むく)な忠実さに打たれ、僕はいいようのない解放感に包まれました。と同時に、自分に問いかけたんです。僕はデザイナーとしてクライアントに忠実だったけれども、自己に忠実じゃないんじゃないか。やっぱり絵しかないんじゃないか、と。もともと高校生のころから、僕は郵便配達員の次に画家になりたかったわけですから。

 実は「天井桟敷」「状況劇場」といった演劇のポスターを制作していた同時期に、僕は既に絵画を発表しているわけです。挑発的な女性を描いた絵です。

 〈41年に東京・京橋の南天子画廊で個展を開き、横尾さんは既にピンクの肌をした大胆な娘を描いた作品-通称「ピンク・ガールズ」を発表している。案内状の推薦文で、三島由紀夫は「無礼な芸術」と逆説的にたたえたという〉

 つまりグラフィックと並行しながら、絵画や版画といった美術の制作もずっと続けてはいたんです。でも「画家宣言」をあえて自分でも肯定したのは、もしかしたら自分は絵で将来行き詰まるんじゃないか、そしてグラフィックの仕事を駆け込み寺みたいに考えるのではと思ったから。画家宣言が「公」になることで、もう後戻りはできなくなる。自分の弱さを封じ込め、己を崖っぷちに立たせたかったんでしょうね。

 親しかった美術評論家の東野(とうの)芳明さんに「わざわざ画家宣言しなくたって、君のグラフィックデザインは絵画と同じ延長上にあるものじゃないか」と言われました。でも僕の中では「そうじゃないんだ」と思っていました。

 〈画家宣言は「デザイン廃業宣言」ではなかった。結果的に「美術家」としてボーダーレスに活躍している横尾さんだが、美術とデザインのとらえ方はどう違うのだろうか〉

 簡単に言うと、グラフィックには依頼主がいて、いろんな条件や制約、締め切りもひっくるめたお仕事。そしてその仕事が終われば、もう完全に離れられるもの。一方、美術の場合は仕事ではなく、自分の生き方、人生です。だから「描き終わったから遊びに行くよ」という感じじゃないんですね。描き終わった次の瞬間、もう次の絵を用意したくなるわけです。

 ピカソ展を見て、別にピカソのようなスタイルの絵を描こうと思ったわけではありません。ピカソのような生き方が本当に可能ならば、僕も従いたいと思ったのです。つまり、創造と一体化した人生です
福源春
花之欲



Posted by ビルケンシュトック キッズ at 17:57│Comments(0)
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